ルーツ【教祖没後50年記念(第1回)】

教祖である岡林正神は、大崎八幡宮(川井神社)の22代目宮司として、天正14年(1586年)より続く岡林氏神職家の跡を継ぎ、昭和22年に長生教の創立を行ってこられました。

そのルーツを遡って行きたいと思います。
■岡林氏のおおまかな概要
そもそも社家岡林氏のルーツは大初代宮司である岡林甲斐守勝貞が天正14年6月15日に大崎八幡宮(川井神社)を建立したことから始まるとされる。
それより古代は、安居神楽縁起などに記さ
れる。建武の時代(1334年から1336年)ごろから記され、京の戦乱を恐れて逃れて来たとされる。

岡林姓を名乗り始めたのはさらに古くなるが史料などは残されておらず発生の時代は定かでは無い。

大崎八幡宮(川井神社)の初代であるる岡林甲斐守勝貞は、諏訪から来た神官で、建立当時より前は大崎玄蕃という名で知られており、武田勝頼であるという説もある。もしそうであれば勝頼は諏訪四郎勝頼なので、諏訪大社の最後の大祝(宮司)であったという事になる。その大崎玄蕃と、土佐で古より続いて来た岡林氏とが結ばれて岡林甲斐守源勝貞が初代宮司となった。
岡林氏のルーツは伝承で残されています。

 

■教祖の岡林正神とは
明治23年(1890年)1月5日に岡林弥之助の次男として生まれ、福吉という名を賜った。
大正2年(1913年)に兼壽と結婚し、大正9年(1920年)に名を正神と改める。29歳の時であった。
幼少期のころの事は記されていないが、代々神職を受け継ぐ家なれば門前の小僧であったことは容易に想像できる。また、本人は石鎚信仰にも厚く、先達として石鎚山で修行をしていた。そのような中で多くの神術師たちとの出会いがあったのでしょう、土佐の物部にて陰陽道である「いざなぎ流」を習得され、一子相伝の巻物を受け継がれており、
また、九州の福岡にある神理教にて修行をされ、大正10年(1921年)の30歳のときには神理教高知教会の代表者となっている。近隣の横倉山、また数多の修行場で修行を重ねている。
戦時中の神社は国家神道として管理され統合され、古い神々は抹消され、宝物(重要文化財に価するもの)は略奪を受け、廃仏毀釈などで寺が取り壊されるような時代であったことから、辛酸な思いも多くされたことでしょう。
教祖正神は昭和20年(1945年)54歳のときに終戦を経て政教分離が行われる。
信仰に篤く、昭和22年(1947年)56歳のときに長生教創立事務所を設置し、古い神々を祀る。
昭和23年(1948年)57歳のときに宗教法人長生教の初代官長として就任、同年に大崎八幡宮(川井神社)の22代目宮司に就任、13の教会神社を包括団体として登記し、広く布教に努める。この間、教祖のひたむきな信仰と努力あって多くの信仰者を得られ、包括宗教団体として発展をして来ました。
その性格ですが、「ベンベンじい」と呼ばれ、祝詞を上げるときもベンベン、ベンベンという感じで、それが教祖の祈るスタイルだったのだと思います。メリハリがあり、ざっくばらんな性格であったようで、祭祀のときも、あとの「直来(会食)の酒を沸かしよりや」と祭祀に関わる人に気楽さを与えて、楽しむこと、また説教では金言で説き、悩める人は病める人の相談と祈祷を行って来ました。教祖の残した57の教え草は、今も多くの信者様の支えとなっております。
また、長生教本院では、映画や演劇、神楽、サーカスなどを催行され、それを楽しみに集まった人も多かったと聞きます。
教祖は白衣姿に背中に榊の枝を差して、調子の悪い人にベンベンと祈り、それで本当に体がシュッと良くなったという話は数限りなく、また夏にはフンドシ姿で川で泳ぎ、村内を歩いていた姿はまるで仙人、と当時を知っている人たちの話もよく聞きました。
食事は肉や魚も取らず野菜中心で、師仙たちに習おうと日々神惟の道を歩み来ましたが、昭和47年(1972年)5月17日、82歳を一代として他界されました。
今日は、それより50年目の命日(令和3年5月17日)となります。信奉してきました天照日大御神の御許に召し上がりまして、長生教に大御徳をこれよりも蒙らせ給いますよう、広く世界が幸せになりますよう祈念いたします。
記 長生教総監 岡林正徒(誠)

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